北陸の貨物支線「敦賀港線」をたどってみた 国際連絡列車も走った廃線のいまと未来



日本は島国のため外国に直接乗り入れる国際列車は走っていない。ただ、戦前は国際航路に接続する旅客列車が運行されていたことがある。その一つが、敦賀~敦賀港の2.7kmを結ぶ北陸本線の支線、通称「敦賀港線」を走っていた「欧亜国際連絡列車」だ。敦賀とロシア極東のウラジオストクを結ぶ国際航路に連絡していた。

かつて「欧亜国際連絡列車」が走っていたこともある貨物支線の敦賀港線。【撮影:草町義和】

戦後の敦賀港線は貨物列車だけになり、15年前に運行を終了。5年前には正式に廃止されたが、線路の大半はいまも残っている。北陸新幹線・金沢~敦賀の試乗取材の前日(1月31日)、私は敦賀港線の廃線跡をたどってみた。

信号機や地上子も残る

小松駅から特急「しらさぎ」に乗り、敦賀駅に到着。3月16日に延伸開業する北陸新幹線の巨大な高架駅舎の反対側にある小柄な在来線駅舎から外に出る。11時少し前から歩き出した。

背後に巨大な北陸新幹線の高架駅舎が見える敦賀駅。【撮影:草町義和】
敦賀港線の位置(赤、1912~2019年のルート)。【画像:国土地理院地形図、加工:鉄道プレスネット】

北陸本線の線路と真新しい北陸新幹線の高架橋にできるだけ沿うようにして北東方向へ。しばらくすると、北陸本線の線路から分かれるようにしてカーブする、敦賀港線の敷地が現れた。造成工事中で線路はほぼ撤去されていたが、小さな水路をまたぐための橋桁が残っている。

北陸新幹線の高架橋の脇に現れた敦賀港線の敷地。線路は撤去されている。【撮影:草町義和】
水路をまたぐ橋桁がまだ残っていた。【撮影:草町義和】

ここを過ぎると踏切が現れて線路が延びている。道路と線路を遮るガードレールが設置されているものの、それ以外は列車が走っていたころのまま。バラストと枕木、そして2本のレールがしっかり地面に張りついている。脇には勾配標も見えた。

バラストと枕木、2本のレールが姿を現す。【撮影:草町義和】
線路の脇には勾配標が。【撮影:草町義和】

線路内は立入禁止。線路に沿って進む道路もない。できるだけ線路に近い道路を歩き、ところどころにある踏切から線路を眺める。保安関係の機器を収納した箱はそのままで、踏切警報機も横倒しにされているが現地に残されている。信号機は設置された状態のままだが、線路からそっぽを向いていた。

踏切はガードレールを設置して線路内に入れないようにしている。【撮影:草町義和】
保安関係の機器類を収めた箱と横倒しにされた踏切警報機。【撮影:草町義和】
信号機はそっぽを向いていた。【撮影:草町義和】

よく見ると、2本のレールのあいだには自動列車停止装置(ATS)の地上子らしきものもある。標識類もかなり残っており、その気になれば、いますぐにでも復活させることができそうに思えた。

ATSの地上子らしきものもそのままだった。【撮影:草町義和】

廃駅だが「現役」の営業施設

線路は敦賀の市街地のなかを進む。しばらくして線路に沿う道路が現れ、並行して歩くことができるようになった。よく見ると踏切がない場所にも人通りがあることを示す「道筋」が線路と交差するようにして形成されている。いわゆる「勝手踏切」だろうか。

市街地を進む敦賀港線の線路。【撮影:草町義和】
踏切がない場所にも線路と交差するような「道筋」が見える。【撮影:草町義和】

国道476号の高架下をくぐって山腹に張りつくようにして進むと、山腹から線路敷地に木が倒れ込んでいた。かなり前から敷地内に入り込んでいるのか、それとも先日の地震の影響で倒れたのだろうか。

国道476号の高架橋をくぐる。【撮影:草町義和】
線路内に倒れ込んだ木。【撮影:草町義和】

この先、国道8号の下をくぐる部分は線路が撤去されていたが、そこを抜けるとすぐに線路が復活。敷地は複線を設けられるほどの広さがある。このあたりで敦賀港駅に向かう線路と西の倉庫街がある地区に向かう線路が分岐していたが、倉庫街に向かうルートは遅くとも40年前に使用を終了。いまは工場の建物で遮られていて、明瞭な痕跡は見えない。

国道8号をくぐる部分は線路がない。【撮影:草町義和】
もうすぐ敦賀港駅。ここで分岐して西に延びていた線路(左上)は工場に遮られ痕跡は見えない。【撮影:草町義和】

残っているほうの線路は分岐器(ポイント)で2本に分かれ、いかにも駅構内の風情に。その先は線路の脇に大量のコンテナが置かれている。ここが終点の敦賀港駅の跡地だが、敷地内ではフォークリフトが動き回ってコンテナを移動させており、大型コンテナを積み下ろしするトップリフターの姿も見える。明らかに廃駅ではなく現役の営業施設だ。

ポイントで線路が二手に分かれて駅構内の風情に。【撮影:草町義和】
敦賀港駅の跡地に到着。線路脇には大量のコンテナが置かれフォークリフトが動き回っていた。【撮影:草町義和】
トップリフターの姿も。【撮影:草町義和】

敦賀港駅は貨物列車の運行終了後、トラックによるコンテナ輸送の拠点施設「敦賀港オフレールステーション」に生まれ変わり、現在は敦賀港新営業所に改称されている。線路は残っているのに廃駅、廃駅なのに現役の営業施設。何とも不思議な光景だ。

JR貨物コンテナの20D形や19G形なども置かれている。【撮影:草町義和】

複雑な気分にさせる「上陸地点」

敦賀港駅跡の海岸寄りにはレトロ風の真新しい建物が連なっている。建物の前に設置されていた案内板によると、欧亜国際連絡列車が運行されていた大正~昭和初期のころの建物を当時の位置に復元したもの。駅舎や税関など4棟の外観を再現している。

かつての税関や駅舎を再現したレトロ風の建物。実際に建設された場所と同じ位置に復元されている。【撮影:草町義和】
案内板には欧亜国際連絡列車が運行されていたころの写真が掲載されていた。右側に税関、左側には桟橋に停泊する船が見える。【撮影:草町義和】
案内板の写真と同じ角度で撮影してみた。【撮影:草町義和】

この建物に隣接する道路を挟んだところにも案内板があり、こちらは「上陸地点」と記されていた。ここで列車と船を乗り継いでいたのだから上陸地点なのは当然だろう、わざわざ案内する必要はあるのか……と思いながら解説を読み進めると「1940年代にはユダヤ難民の受入れの舞台となりました」などと書かれていた。

「上陸地点」と記された案内板。「命のビザ」で来日したユダヤ難民はここで日本の地を踏んだ。【撮影:草町義和】

なるほど、杉原千畝が発給した「命のビザ」で来日したユダヤ難民の上陸地点は、ここだったのかと思う。案内板の解説は「まるで悪夢のような体験をした彼らは身も心も疲れ果て、受入れてくれた敦賀の人々の温かさに感動し、敦賀のまちを『天国』と表現しました」と続く。しかしいま、パレスチナ自治区のガザ地区で起きている「地獄」のことを考えると、どうにも複雑な気分になるのを抑えることができなかった。

敦賀港新営業所を離れて周辺をうろうろすると、明治期に建造された赤レンガ倉庫を活用した商業施設があり、その脇にはキハ58系と呼ばれた国鉄気動車群のキハ28形が「急行 わかさ」のヘッドマークを取り付けて静態保存されていた。敦賀港線にちなんで保存しているのだろうが、戦後製の旅客車であるキハ28と戦後は貨物線だった敦賀港線との関連性は強くないはずで、少し違和感を覚える。

少し離れたところには敦賀鉄道資料館がある。1999年の博覧会開催時に敦賀港駅の旧駅舎を再現した建物を活用しているが、この日は休館で入れなかった。

敦賀港駅の近く残る赤レンガ倉庫とキハ28形。【撮影:草町義和】
旧敦賀港駅舎を再現した敦賀鉄道史料館は休館だった。【撮影:草町義和】

実は日本初の鉄道計画

敦賀における鉄道の歴史は非常に古い。いまから155年前の1869年、前年に発足したばかりの明治新政府は官設鉄道(国鉄線)の建設を決定。現在の東海道本線に相当する東京~横浜・東京~京都・京都~神戸と、現在の北陸本線に相当する琵琶湖畔~敦賀の合計4区間を整備区間として盛り込んだ。

敦賀に乗り入れる鉄道は計画ベースで考えれば、この3年後に開業する新橋(東京)~横浜とともに日本初の鉄道ということになる。当時の敦賀は「北前船」と呼ばれた日本海側の国内海運の拠点。日本の大都市が連なる東京~神戸エリアとともに敦賀の鉄道が計画されたのは当然といえるかもしれない。

北前船の拠点の一つだった敦賀港。【撮影:草町義和】

琵琶湖畔~敦賀の鉄道の工事は、琵琶湖畔の長浜と敦賀港がある金ヶ崎地区の両側から進められた。1882年、山岳地帯のトンネル区間を除き開業。1884年にはトンネル区間も含め長浜~金ヶ崎が全通した。終点の金ヶ崎駅が、のちの敦賀港駅だ。

1889年には東海道本線が全通。金ヶ崎に延びる鉄道と接続し、敦賀と東京、名古屋、大阪などを結ぶ幹線鉄道ルートが構築された。1896年以降は北陸本線が敦賀駅から福井方面に順次延伸。このため敦賀~金ヶ崎は貨物輸送が主体の支線と化し、1897年には旅客列車の運行が終了した。

これと前後して敦賀港は1896年、特別輸出港に指定。1899年には外国貿易港に指定されている。国内の鉄道ネットワークの整備が進んで国内海運が衰退し、敦賀港は海外貿易の拠点へと変わっていく。

ちなみに、当時の敦賀駅は現在地から北へ約1kmの気比神宮付近にあり、北陸本線や敦賀港線のルートも異なっていた。敦賀駅が現在地に移転したのは1909年。1912年には敦賀港線が現在の敦賀駅にスイッチバックしなくても入れるよう線路が付け替えられた。

東京から「半月以上」欧州へ

敦賀港線が線路付替でルートが変わった大正期の1912年、敦賀~ウラジオストクの国際航路に連絡する旅客列車が敦賀港線に乗り入れるようになった。これが欧亜国際連絡列車だ。ほどなくして第1次世界大戦やロシア革命などの影響を受けて運休するが、昭和期に入ったばかりの1927年に再開。この間の1919年、金ヶ崎駅が敦賀港駅に改称された。

鉄道省編纂『汽車時間表』1934年12月号(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)によると、毎月5日は東京22時00分発の神戸行き急行列車に敦賀港行きの客車を連結し、東京~敦賀港を直通。敦賀港駅には翌日の9時11分に到着する。

ここで14時に出航する北日本汽船の船に乗り換え、東京を出発して5日目には当時ソ連だったウラジオストクに到着。さらにシベリア鉄道の列車を乗り継げば、14日目にはモスクワ、17日目にはパリやロンドンに到達できた。

東京~敦賀港を直通する欧亜国際連絡列車(赤)と敦賀~ウラジオストクの国際航路(青)の時刻表。ソ連(ロシア)の地名も一部を除き漢字で記されている(浦鹽=ウラジオストク、知多=チタ)。【資料:『汽車時間表』1934年12月号】

半月がかりという長い行程だが、当時の海外旅行は航空交通ではなく船舶利用が主流。日本郵船の欧州線の場合、横浜~ロンドンで50日ほどかかった。それに比べれば、おもに鉄道を使う敦賀港からのルートは驚異的な速度だ。下関から朝鮮半島に渡るルートなども含め、東京~敦賀港や東京~下関を結ぶ列車は日本と大陸を結ぶ国際連絡ルートの一翼を担った。

鉄道からトラック輸送の拠点に

しかし、戦時体制への突入とともに海外旅行が困難になり、敦賀港駅に乗り入れる旅客列車は廃止。戦後は航空交通が一般的になったこともあり、敦賀港線は再び貨物列車のみ走る貨物支線に変化した。

1987年の国鉄分割民営化では、JR貨物が敦賀港線の線路施設を引き継いだ。JR貨物は原則的には線路を保有せず、JR旅客会社から線路を借りて貨物列車を運行しているが、敦賀港線の場合は貨物列車しか走らない。そのためJR貨物が線路も保有した。

ただ、外国貿易港の指定から100周年を迎えた1999年には、品川(東京)~敦賀港を結ぶ団体列車が運行されて欧亜国際連絡列車を再現。ほかにもSL列車など臨時の旅客列車が一時期運行されていたことがあった。

敦賀港線はトラック輸送の発達に伴って貨物取扱量が減少。2009年には貨物列車の運行を終了。敦賀港駅が敦賀港オフレールステーション(敦賀港新営業所)に変わったあとも線路は残されたが、JR貨物は「運行再開に見合う需要を見込める状況には至らない」とし、2019年4月1日付けで敦賀港線を正式に廃止した。

廃止から5年が過ぎた敦賀港線の線路。【撮影:草町義和】

跡地の「まちづくり」どうなる

敦賀港線や敦賀港駅の跡地がある金ヶ崎地区では現在、その歴史を生かしたまちづくりが計画されている。敦賀市は北陸新幹線・金沢~敦賀の延伸開業を契機に金ヶ崎地区の整備を進め、観光客の誘致を目指す考えだ。

敦賀商工会議所・敦賀市・福井県で構成される金ヶ崎周辺魅力づくり協議会は2023年11月、『金ヶ崎周辺魅力向上デザイン計画』を策定。敦賀市は2024年度当初予算案に「金ヶ崎周辺魅力づくり事業費」として合計5億7870万円を計上した。JR貨物が所有する敦賀港線の敷地(約5万9000平方m)を事業用地として取得し、並行して各施設の設計を進める。

線路敷地はいまもJR貨物が所有。敦賀市の2024年度当初予算案には用地取得費が盛り込まれた。【撮影:草町義和】

協議会が策定したデザイン計画によると、復元した北前船を海辺に設置したり、赤レンガ倉庫や海辺などを結ぶ歩道橋を整備したりして回遊性の向上を図る。また、敦賀港駅の敷地に鉄道公園などを整備。かつて敦賀駅で使われていた転車台も鉄道公園に移設する。

一方、敦賀~敦賀港に残る線路敷地については「まちなか周遊を拡大させるための整備を併せて検討」との文言がデザイン計画に盛り込まれているが、具体的に何を整備するかは記されていない。普通に考えれば遊歩道だろうが、あるいは遊覧鉄道のようなものを整備するだろうか。今後の動きに注目したい。

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