広島湾に浮かぶ島といえば厳島(宮島)が有名だが、その東には江田島(広島県江田島市)という比較的大きな島がある。隣接する能美島と一体化しており、Y字状の形がユニークだ。
ここは旧海軍兵学校の施設を転用した海上自衛隊の幹部候補生学校と第1術科学校があることで知られる。明治期に建造された赤レンガの庁舎は観光スポットとしても有名だ。その一方、海上自衛隊が江田島で鉄道を運行していたことは、あまり知られていない。
島の北東部、切串から小用にかけ1kmほどの海岸沿いに「切串弾薬庫」という海上自衛隊の施設がある。現在は呉弾薬整備補給所(呉弾補所)が管理し、砲銃弾や魚雷、機雷といった弾薬類の保管と整備、補給を行っている。江田島市内なのに「呉」を名乗っているのは、呉地方隊の隷下部隊のためだ。
ここには補給桟橋と呼ばれる岸壁とトンネル式の火薬庫があり、岸壁や火薬庫を結ぶ鉄道の線路が敷かれていた。製鉄所や工場の敷地内で原材料や製造品を運ぶ専用軌道と同じ類いのものだが、運んでいたのは弾薬類。北海道・本州・四国・九州ではない「島の鉄道」というのも非常に珍しい。
呉弾補所は護衛艦や潜水艦といった、いわゆる「正面装備」に比べると地味な存在なのは否めない。しかし、正面装備が本来の力を発揮できるのは弾薬類の整備と補給があってこそ。地味だが防衛上の重要な役割を持ち、後方部隊としての存在感は大きい。その役割のなかに鉄道が組み込まれていたという点でも興味深い。
専用軌道は10年以上前に廃止されて撤去も進んでいるが、一部の地図ではいまも軌道が描かれており、一般に公表されている空中写真でも軌道らしきものが随所に見える。廃線になった軌道が現在どうなっているのか見てみたいが、重要な役割を持つ施設ゆえ関係者以外は立入禁止。通常は廃線跡を散策することなどできない。
私は呉地方総監部広報推進室と呉弾補所の協力により、専用軌道の廃線跡をたどる機会を得た。青空が広がった3月11日の朝、JR呉線・呉ポートピア駅の近くにある桟橋から小型フェリーに乗り、10分ほどで切串港(吹越桟橋)に到着。ここから細い道を少し歩くと、左脇に呉弾補所の入口がこつぜんと現れた。
閉ざされた坑口の前にレール
出迎えてくれた広報推進室員と呉弾補所員の案内により、さっそく車に乗って廃線跡めぐりが始まる。米軍が終戦直後の1947年に撮影した空中写真を見ると、入口付近にも軌道があったはずだが、それらしき痕跡は見えない。
専用軌道は海岸沿いに延びて岸壁に乗り入れる「本線」と、本線から分岐して火薬庫や建物につながる複数の「支線」で構成されていた。岸壁に陸揚げされた弾薬類を貨車に載せて火薬庫まで運搬。補給の際は火薬庫から岸壁まで弾薬類を運ぶというのが、この専用軌道の役割だった。
道路を少し進むと東側に海が現れた。国土地理院とゼンリンの地図では、このあたりから軌道が描かれている。道路の山側に本線の軌道が敷かれていたが、軌道の敷地は雑草に覆われてレールや枕木の姿は見えない。この敷地と道路が平面交差する踏切の部分もアスファルトで埋められていた。
西側の山のふもとにトンネルの坑口が現れた。車を降りて近づくと灰色の頑丈そうな鉄扉で閉ざされており、内部の様子は分からない。そして、その手前のコンクリートで舗装されている部分には2本のレールが2組、複線の軌道が残っていた。鉄扉の先は火薬庫で、坑口の手前にある軌道が支線の痕跡だ。
コンクリートに浮かぶ複線軌道の一方は脱線防止用の補助レールも設置されていて、車輪のフランジが入り込む溝もそのまま。車両さえ持ち込めばいまでも走れそうだ。もう一方はレールの頭面近くまでコンクリートで覆われており、溝はなくなっていた。
自衛隊が保有する弾薬量は陸海空合わせた総量が防衛省から公表されたことはあるが、どのような弾薬類がどこに、どのくらいあるかは公表されていない。海上自衛隊を題材にした漫画やアニメ、映画で覚えた言葉を思い浮かべ、鉄扉とレールを見ながら「この先にアスロックがあるのだろうか」「CIWSの弾丸を満載した貨車が、この坑口を出入りしていたのかな」などと想像するくらいしかできなかった。
観光列車を走らせたい景色
火薬庫に続いてドーム状の倉庫らしき建物が姿を現す。この建物の北側にも灰色をした鉄扉があり、その手前を舗装するアスファルト上に単線の軌道が浮かんでいた。
1947年の空中写真では鉄扉からまっすぐ軌道が延びて行き止まりになっているが、目の前の軌道は本線に合流するかのように少しカーブを描いている。ゼンリンの地図も本線に合流する軌道を描いており、運用上の都合で軌道を付け替えたのだろう。
また少し進んで倉庫らしき建物が複数固まっている場所に行くと、複数の支線の軌道が放射状に延び、踏切の部分はレールが浮き出ている。建物と山に挟まれた空間には枕木でしっかり支えられた2本のレールが雑草に埋もれながらも残り、火薬庫のほうへ延びていた。
靴を使って2本のレールの間隔(軌間)を計ってみると、JR在来線と同じ1067mmのようだ。ただ、軌道がカーブしている部分はかなり急に見える。地図上で曲線半径を計測しても、場所によっては半径10mくらいしかないようだ。JRの営業列車で使われているような大型の旅客車や貨車を持ち込んでも、走らせるのは無理だろう。
実際に使われていた車両も、機関車は長さが4mくらいで貨車は2mもない小型のものだった。運搬できた弾薬類は比較的小さいものに限られたはずで、使い勝手の悪さが廃止の一因だったのかもしれない。
本線の軌道はこの先で道路と交差して海岸沿いに移り、岸壁に乗り入れるルートを取っていた。道路との交差はアスファルトで完全に埋められているが、岸壁の手前は枕木付きのレールが残る。軌道が分岐する部分には転轍機の手動レバーもあり、せっかくだからとレバーを握って動かしてみたが、レールは動かなかった。
いろいろな角度から軌道を撮影していると、フォークリフトが脇を通過していった。鉄道の廃止による代替交通といえばバスやトラックだが、ここではトラックに加えフォークリフトも「代替交通」の一翼を担っている。
周囲は青い空と青い海。北の奥には広島の市街地も見える。ここで弾薬類を運ぶ列車と海を組み合わせた写真を撮れば、さぞかし「いい絵」になっただろう。現実には困難だが、観光トロッコ列車を走らせたら人気のスポットになるのではないかとも思う。
白い床に浮かぶ黒い痕跡
現在の岸壁は1992年に完成した。従来の岸壁の外側に拡張する形で整備され、8000トン級の大型船が横付けできるように。軌道も新しい岸壁に乗り入れるルートで付け替えられている。
比較的新しい施設のせいか、床は白みが強いコンクリート。一方でレールが敷かれていた部分は黒いアスファルトで埋められていて、どこに軌道があったのか分かりやすい。軌道が分岐する部分はちょっとした幾何学模様のようになっている。
列車に乗っているつもりでアスファルトの上を歩いていくと、部分的にレールの頭面が顔を出していた。レールを撤去しないままアスファルトで舗装したらしい。
脇には大型のクレーンがあり、これを使って弾薬類の陸揚げや補給作業を行っている。コンクリートの床に埋め込まれたレールを走って移動できるタイプだから、呉弾補所の鉄道はいまも現役、といえなくもないだろうか。
岸壁に横付けされた護衛艦の脇で、大型クレーンと機関車が動き回っている姿を見てみたかったと思う。
軌道を付け替えた痕跡も
国土地理院の地図では岸壁の南端で軌道が途切れている。実際に岸壁から南のほうを見ても、アスファルトで覆われた道路が広がるばかりで軌道の姿はない。
ただ、1947年の空中写真とゼンリンの地図ではルートが一部異なるものの、軌道がさらに先まで延びている。1947年の空中写真の場合、海岸沿いを進む軌道、車庫らしきものがある場所を通って火薬庫につながる軌道、そして半円を描いて別の火薬庫につながる軌道の3方向に分かれているのが確認できる。
車庫らしきものがあった場所は現在、呉弾補所の庁舎が建っている。この庁舎は1967年までに完成しているから、車庫の奥に延びて火薬庫につながる軌道は、この時点で寸断されて使われなくなったのだろうと思っていた。
ところが庁舎の南東側に回り込んでみると、脇に2本のレールが敷かれており、奥の火薬庫につながるようなルートを描いていた。この軌道は1947年の空中写真では確認できないが、ゼンリンの地図には載っている。庁舎を建てた際、奥の火薬庫につながるルートの迂回路として軌道を付け替えたようだ。庁舎の裏側にも付替前に使われていたと思われる軌道が複線で残っていた。
ここから火薬庫につながる軌道を少し歩く。1947年の空中写真では複線になっているが、目の前にある軌道は単線。火薬庫の直前で分岐して複線になってから坑口へと入っていく。岸壁や庁舎周辺に限らず、運搬量の変化などに応じて軌道の付け替えが頻繁に行われていたのかもしれない。
残る軌道はどうなる?
この専用軌道の経緯ははっきりしない部分が多い。一般に公刊、公表されている文献や雑誌、新聞の記事を総合すると、切串弾薬庫は旧海軍の手により1937年に工事を開始。1941年ごろには呉第11空廠の施設として完成した。専用軌道もこの時点で整備されていたとみられる。
ちなみに、これに先立つ1933年には国鉄(現在のJR)呉線の吉浦駅近くに旧海軍の貯油所が整備されており、現在は海上自衛隊の呉造修補給所が管理する貯油所(吉浦燃料貯蔵所)に。吉浦駅と貯油所を結ぶ引込線も1982年ごろまで存在していた。
この引込線は国鉄在来線につながっていたから、軌間は当然1067mmだった。切串の専用軌道はほかの鉄道との接続がなく軌間の制約はないはずだが、吉浦の引込線と同じ1067mm軌間を採用することで資材の共通化を図り、建設・保守コストを抑えたのかもしれない。
切串弾薬庫は1945年の終戦で連合国軍に接収されたが1957年に返還。敷地の南側は防衛火工品などを製造している中国化薬の工場に変わったが、北側は海上自衛隊の火薬庫として使われることになった。
専用軌道も中国化薬が引き継いだ土地を除いて海上自衛隊が再整備し、1959年ごろに改修工事を実施。その後は軌道の付け替えや改修、使用範囲の縮小を繰り返しながら弾薬類の運搬に使っていたとみられるが、2010年ごろまでに使用を終了している。
今回の取材では本線を中心に軌道の撤去が進んでいる一方、支線の軌道は比較的多く残っていることが確認できた。呉地方総監部広報推進室は残存する軌道の今後の処遇について「現在、具体的な方針等は定まっていない」としている。施設の改修や業務上の支障が生じない限り、しばらく残りそうだ。
車両は別の場所で静態保存
ちなみに、貨車を牽引する機関車は整備重量7tの小型ディーゼル機関車だった。1959年、かつて入替用や工事用の小型機関車メーカーだった加藤製作所が7t機を納入している。老朽化のため1994年度に処分されたが、これに先立つ1992年にはJR向けのモーターカーを製造している堀川工機の7t機が導入され、専用軌道の使用終了まで使われた。
最後まで使われた車両は老朽化のため2015年に処分が決まってしまったが、海上自衛隊に現存する唯一の鉄道車両ということが評価されて静態保存することに。吉浦燃料貯蔵所に移設され、2017年から展示(通常は非公開)されている。
『海上自衛新聞』によると、切串ではなく吉浦で保存しているのは、吉浦の引込線でも同型の機関車が使われていたのに加え、吉浦の貯油所は視察や研修などの訪問者が多く広報効果が期待できるためという。今回は残念ながら取材できなかったが、いつか見学できればと思う。
《主要参考文献》
・『呉と海上自衛隊』中国新聞呉支社、1998年4月
・『呉地方隊五十年史』海上自衛隊呉地方総監部、2004年
・岡本憲之「加藤製作所機関車図鑑・番外補足編 呉弾薬整備補給所の軌道(消散軌道 第36回)」『j train』2015年春号(57号)、イカロス出版
・『海上自衛新聞』2017年4月7日(第2560号)、海上自衛新聞社
《続報記事》
・海上自衛隊の江田島専用軌道「占領時代」捉えた写真 オーストラリアが所蔵(2024年4月14日)
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