海上自衛隊の切串弾薬庫(広島県江田島市)にあった専用軌道の廃線跡を取材して記事にしたところ、非常に大きな反響があった。一部の読者からは、オーストラリア戦争記念館が専用軌道の写真を所蔵していると、ご教示いただいた。
切串弾薬庫は広島湾に浮かぶ江田島の北東部にある火薬庫。現在は海上自衛隊の呉弾薬整備補給所(呉弾補所)が管理している。1941年ごろ、旧海軍の呉第11空廠の施設として完成。専用軌道もこのころに整備されたとみられ、岸壁と火薬庫を結び弾薬類を運搬していた。1945年の終戦で連合国軍に接収されたが1957年に返還。敷地の北側を海上自衛隊が引き継ぎ、専用軌道も改修したうえで2010年ごろまで使われていた。
オーストラリア戦争記念館が所蔵しているのは、終戦後に連合国軍に接収され返還されるまでの1940~1950年代に撮影された写真。同館のウェブサイトでパブリックドメインとして公開されている。これを見る限り、占領時代も専用軌道は使われていたようだ。ここで所蔵写真を9点紹介させていただく。
※写真の説明書きは順に「受入番号」「撮影時期」「写真に付記されている解説(日本語訳)」
現在の呉弾補所の庁舎前付近から北側を撮影した写真とみられる。海沿いに2本のレールが敷設されているのが見える。右奥が現在の呉弾補所の補給桟橋と呼ばれる岸壁になる。
「BCOF」とは英連邦占領軍のこと。英国・オーストラリア・ニュージーランド・英領インドの各軍で構成され、1946年から1952年まで中国・四国地方を中心に日本の占領任務を担っていた。1950年に勃発した朝鮮戦争を受け、1952年に英連邦朝鮮派遣軍(BCFK)に改編。1956年まで引き続き駐留している。
廃線跡の取材記事では「車庫らしきものがあった場所」と表現した場所で、現在は呉弾補所の庁舎があるあたり。屋根のない小型の貨車に弾薬類らしきものを積載しているのが確認できる。
複線の専用軌道が見える。写真ほぼ中央が管理事務所とみられ、現在は呉弾補所の庁舎があるあたりになる。右上には船が横付けされた岸壁が見える。
現在の呉弾補所の岸壁とみられ、1992年の拡張前の姿が写し出されている。クレーンの下、貨車の右側に見えるのは小型のガソリン機関車だろうか。
※補足(2024年4月16日6時50分):記事公開後に読者から寄せられた情報によると、機関車は前後に電池を搭載したバッテリー機関車に見えることから、日本輸送機が呉海軍工廠に納入したバッテリー機関車の可能性があるという。
現在の呉弾補所の岸壁から山を一つ挟んで北側とみられる場所。線路の脇に多数の弾薬が置かれているのが見える。
これも現在の呉弾補所の岸壁から山を挟んで北側と思われる。単線の軌道が火薬庫の坑口につながっている。
詳細な場所は不明。ドラム缶が置かれていて見えにくいが複線の軌道が坑口に入り込んでいる。私が取材したときは火薬庫の坑口は鉄扉で閉ざされていたが、この時代は扉が設けられていなかったようだ。
BCOFからBCFKに改編後の写真。貨車に空調装置を搭載したということは、火薬庫には常設の空調装置が整備されなかったようだ。
無造作に砲弾を積んだ貨車の右側に線路の分岐が見える。ただし場所は切串ではなく秋月となっている。秋月は江田島中部の東岸。ここにも旧海軍の弾薬庫が建設されたが終戦で接収され、現在も米軍が弾薬庫として使用している。
1947年撮影の空中写真を見ると、秋月の弾薬庫も切串と同様、岸壁や弾薬庫を結ぶ専用軌道が縦横無尽に敷設されているのが確認できる。ただ1962年撮影の空中写真では軌道の姿が見えず、かなり早い段階で撤去されてしまったようだ。
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