「塀の中」に入っていく専用線【写真でたどる鉄道の歴史】



鉄道の世界で「専用線」とは、端的に言えば「自分専用の線路」のこと。たとえば工場に原材料を搬入する場合、近くにある駅と工場を結ぶ線路を敷き、貨車が直接工場に乗り入れできるようにすれば、効率的に原材料を搬入できる。その工場専用の線路だから専用線。運賃を徴収して他者を乗せたり他者の物品を運んだりすることは原則的にはできない。

国鉄線から分岐する専用線は1950年代前半で約2200線。そのほとんどは貨車が乗り入れるためのものだったが、なかには工場の従業員を輸送する旅客車が乗り入れるケースもあった。

「塀の中」に乗り入れる専用線。【出典:『国鉄線』1953年12月号、交通協力会】

この専用線の写真は1953年12月までに撮影されたもの。奥には煙を吐いている蒸気機関車が見える。手前右側には背の高い塀らしき構造物があり、塀と専用線の線路のあいだに警備員らしき人の姿もあって、どこか物々しい。

写真の塀の奥側は府中刑務所(東京都府中市)。このころ、中央線の国分寺駅で分岐して府中刑務所近くを通る下河原線という国鉄線があり、刑務所近くの北府中信号場(現在の北府中駅)から刑務所内に延びる専用線があった。現在の府中刑務所は北西側に塀がへこんで広場になっているような場所があるが、ここから専用線の線路が乗り入れていた。

下河原線(青)と府中刑務所専用線(赤)の位置。【画像:国土地理院地図、加工:鉄道プレスネット】

府中刑務所は江戸時代の1790年、墨田川河口に設置された石川島人足寄場が起源。明治維新後は東京府巣鴨村(現在の東京都豊島区)への移転を経て1935年に府中に移転した。このとき専用線も整備され、刑務所内に木材を搬入。受刑者が木工品を生産していた。

府中市史編さん委員会編『府中市近代史年表』(1969年)によると、下河原線は1934年に電化。矯正協会『戦時行刑実録』(1966年)では戦時中の1944年11月21日に「国分寺駅・府中刑務所工場間電車開通祝賀会」が行われたとしており、専用線も電化されていたようだ。戦時中は刑務所外の工場などで受刑者を労働力として「活用」しており、受刑者を工場まで輸送する電車が専用線に乗り入れていたとの話を聞いたことがある。

しかし写真には架線や架線柱の姿がみえない。電化前に撮影された可能性もあるが、警備員らしき人物が警官だとしたら、着用している制服は色合いから電化後の1946年以降に採用された夏服のように思える。終戦後に受刑者輸送が終了したため電化設備を撤去したのだろうか。

府中刑務所の専用線は1960年末期には使用されなくなったとみられ、1973年には下河原線も武蔵野線に編入される形で消滅している。

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