
※未来鉄道データベース付属ブログで2009年2月に公開した記事を一部編集して再公開します。
町はずれの平坦地に忽然と姿を現した大きな穴は、まるで粉砂糖をまぶしたかのように雪と氷で覆われていた。
穴のなかに敷かれた線路の上で、黒い巨体がもうもうと白い煙を上げている。それも一つではなく、二つ、三つ、四つ……白煙の筋が何本も天空に向かって伸びている。これが、21世紀に入って10年が経とうとしている現在の光景とは、とても思えない。その驚きと興奮で、ここジャライノールが厳寒の地であることを忘れそうになった。
中国東北部の北西側に位置し、ロシアと国境を接する内モンゴル自治区満洲里市のジャライノール区は、満洲里の中心市街地から南東に約30km離れた炭鉱の街。漢字では「扎賚諾爾」と書くが、これは当て字であり、もともとはモンゴル語に由来する地名である。
ここには地表からすり鉢状に下へ掘り進んでいく「露天堀り」の大きな炭鉱があり、鉱内で採掘した石炭や土砂を運び出すための蒸気機関車が、何十両と運転されているという。
そんな話を聞いてジャライノールを訪れたくなり、年末も差し迫った2008年12月28日の夕方、オレンジ色の灯りに包まれたハルビン駅のホームで満洲里行きの夜行快速N59次/N57次に飛び乗った。

厳寒の炭鉱最寄り駅
列車は13時間ほど走り続けて翌12月29日、満洲里駅の一つ前のジャライノール西駅に到着した。朝も7時を回っているというのに、あたりは薄暗い。

ホームに降りたってしばらくすると、秒間隔で平手打ちをくらっているかのように顔面がビリビリし、脚は重石を載せたかのように動きが鈍ってくる。そのくせ体が震えるということはなく、明らかに「寒い」という感覚を通り越している。少なくとも氷点下10度や20度のレベルではない。
今日は炭鉱をしばらく見物してから満洲里の市街地に移動して泊まろうと考えていたが、あまりの寒さに我慢できず、駅前のホテルに逃げるようにして飛び込む。部屋でしばらく休んでいるうちに外はかなり明るくなったが、それでも鉛色の雲に覆われていて、どこか薄暗さが残っている。かといって、いつまでもホテルにこもっていても仕方がない。
再び駅前の広場に出て、ちょうど通りかかったタクシーを拾う。露天坑の北側には坑内を見通せる公園があると聞いていたので、公園と露天坑の位置関係を示した地図をメモ帳に書き、それを運転手に見せた。
広大な炭鉱をめぐる10段のスイッチバック
ジャライノールの露天坑は、ハルビンと満洲里を結ぶ浜洲線・ジャライノール~ジャライノール西間の線路の南側にある。西駅を出て街の中心部を過ぎると引き込み線の踏切があり、そこから少し進んで右に折れる道路に入っていくと、右側にそれらしき「穴」がみえてきた。
10分ほどで到着した小さな公園の前でタクシーを降りると、灰色の空の下で「プォーッ!」という大きな音が聞こえてくる。粉雪に覆われた公園に足を踏み入れて音が聞こえてきた方向に向かうと、目の前には湖のように広く、そして峡谷のように深い露天坑が現れ、そのなかで大きな汽笛を鳴らした蒸気機関車が、石炭を満載した貨車を後ろ向きで引っぱっていた。

露天坑は南北に4km、東西に1kmという大きさで、深さも100mくらいはあるだろうか。そして露天坑の東側にはジグザグに敷かれた線路が下層の採掘現場と地表を結んでいる。下層から1本の線路で地表まで上がろうとすると勾配がきつくなるため、「スイッチバック」と呼ばれる山道のようなジグザグの線路を10段組んで、勾配を緩やかにしているのである。

石炭を積んだ貨車を牽引するのはすべて蒸気機関車。1962年から1999年まで1700両以上が製造されたという、入替用テンダ式の「上游型」だ。入替用といっても全長は30m弱はある。ディーゼルエンジンの気配はまったく感じられず、坑内だけでも10両以上もの黒い巨体が、スイッチバックの線路で行ったり来たりを繰り返していた。

蒸気機関車の方向は坑内では固定されているらしく、公園のすぐ前にある線路では、必ずボイラー側が東、炭水車側が西を向いていた。大半は貨車を先頭部のボイラー側に連結しているが、炭水車側に連結している場合もある。それがスイッチバックの線形のせいで牽引運転となる場合があれば推進運転となる場合もあり、運転方式は意外とバラエティに富んでいる。

このほか、露天坑の外にも引き込み線や国鉄線との接続線などが多数存在しているようで、それらも含めると20両以上の蒸気機関車が稼働しているに違いない。
石炭を投げ込む蒸気クレーン
地表面にほど近い線路まで上がってきた蒸気機関車のなかには、公園のすぐ前を通り過ぎて西側の給炭場に入るものもいる。そこでは線路脇に積まれた石炭をクレーン車がすくい上げ、それを上から落とすようにして蒸気機関車の炭水車に投げ込んでいる。このクレーン車も動力は蒸気機関という珍しい鉄道車両で、屋根上の煙突からときどき白煙を上げていた。

これだけの数の、しかも保存用という「お遊び」ではなく仕事の道具として使われている現役の蒸気機関車を1カ所で何十両も見ることができるのは、世界中でも今やここだけだけではないだろうか。
空はいつしか鉛色から灰色に変わって青空もかすかにみえ、日差しが入り込むようになった。鉱内の蒸気機関車も陽光に照らされ、鈍い光を放っていた。

ときおり、坑内にいた従業員がエッチラオッチラと坂道を登って地表に顔を出し、私の近くを通り過ぎていく。なかには声をかけてくるおじさんもいて、私の運動靴を指さしながら「そんな靴で寒くないのか、俺の長靴を見ろ」と笑っている。言葉はもちろん分からないが、おそらくそんなことを言っているのだろう。

私は露天坑の下の方を指さし、線路のそばまで入れないか尋ねてみた。坑内は原則として事前の許可を受けないと入れず、近くには「外籍人民禁止入坑」と書かれた看板も立っている。ただ出発前に調べた限りでは、どうも無許可でも「現場の裁量」で入っている鉄道マニアがけっこういるように思えた。公園からの眺めだけでも十分ではあるが、入れるものなら入ってみたい。
しかし、以前とは状況が変わったのか、笑みを絶やさなかったおじさんは一転してすまなそうな表情になり、首を横に振るだけであった。
完全消滅までの「タイムラグ」
日本では「動力近代化」の名の下、一般の営業列車を牽引する蒸気機関車が30年ほど前に姿を消し、動態保存の蒸気機関車がわずかに残るだけとなった。
国鉄から蒸気機関車牽引の一般営業列車が消滅したのは1975年12月で、それから数ヶ月後の1976年3月には入換用の蒸気機関車も運用を終了している。しかし、現役の蒸気機関車の消滅を1975~1976年とするのは、実は正しくない。国鉄の線路から現役蒸機の火が消えたあとも、北海道室蘭市の鉄原コークス専用線や新潟県糸魚川市の東洋活性白土専用線で蒸気機関車が使われていたからである。
この両者が消えたのは1982年のこと。国鉄の現役蒸機消滅から現役蒸機の完全消滅まで、6年もの「タイムラグ」があった。

いまの中国蒸機も、このタイムラグに入ったといえるかもしれない。国鉄線の営業列車を牽引する蒸気機関車は北京オリンピックの開催を前に消滅したようだが、その後もジャライノール露天鉱のような炭鉱鉄道や森林鉄道、工場の引き込み線など、一部の専用線や地方鉄道でわずかに残っている。
現在はそれらの蒸気機関車もディーゼル機関車への置き換えが進行中で、ジャライノールの露天鉱に至っては2009年8月までに炭鉱自体が閉鎖され、蒸気機関車の運用も終了するらしい。そのせいなのか、線路の脇には撤去されたレールが積まれているのが見える。中国から現役の蒸気機関車が完全に消える日は、そう遠くない。
むさぼるようにして蒸気機関車の往来を眺め続けたが、2時間もするとさすがに氷点下数十度の「平手打ち」と「重み」が、21世紀の「現役蒸機」に出会えたことの感動と興奮を上回ってきた。
これが最後の冬となるであろう、ジャライノールの蒸気機関車。帰り際に鳴り響いていた汽笛は、「現役蒸機」の完全消滅が間近に迫っていることを示す、カウントダウンのように思えた。

※ジャライノールの炭鉱鉄道については、エリエイ発行の『THEレイル』65号(2008年7月)の記事「扎賚諾爾炭鉱と東清鉄道」(蔵重信隆)に、歴史的な経緯から運用されている機関車、貨車、列車の運行方法まで、詳しくまとめられています。
※追記(2022年3月7日):ジャライノールを訪ねたのは2008年12月29・30日です。翌2009年9月に露天坑は閉鎖されましたが、蒸気機関車はその後もしばらく地上の線路で運用されていたようです。
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