25年前に廃止された新潟電鉄電車線の旧・月潟駅(新潟市南区)で9月22日、電車の走行イベント「走れ!かぼちゃ電車2024」が行われる。通常は同駅で静態保存されている電車を走らせるもので、今年2024年で3年目。これに先立つ9月1日に実施された、試運転と地元住民限定の試乗会を取材した。
駅とともに3両を静態保存
現在の新潟交通はバス専業だが、かつては白山前~燕の36.1kmを結ぶ鉄道路線(電車線)も運営する私鉄だった。信濃川水系の中ノ口川に沿って新潟平野を南北に縦断していたが、1999年までに全線が廃止された。
電車線の跡地は遊歩道として再整備された部分が多いが、月潟駅は古びた木造駅舎やホーム、線路がほぼ往時のまま残されている。ホームがある部分の線路には、白山前寄りからモハ10形電車(モハ11)とモワ51形電車(モワ51)、キ100形除雪車(キ116)が3両並んで静態保存されている。駅施設と車両は新潟市が所有し、市民団体の「かぼちゃ電車保存会」が管理している。
モハ11は電車線が開業した1933年にデビュー。戦後の1966年、丸みを帯びた新しい車体に更新された。モハ11以外の電車も一部を除き、このタイプの車体に更新されている。この車体は日本車両が開発した「日車標準車体」と呼ばれるもの。各地の地方私鉄を中心に導入されたが、新潟交通のものは先頭部にドアがなく、大型の2枚窓でデザインされているのが特徴だった。
モワ51も1933年にデビュー。電車だが客室ではなく貨物室を設けた「電動貨車」だ。沿線で産出された農産物などを貨物室に載せて運ぶだけでなく、自走できない除雪車や貨車を押したり引っぱったりする電気機関車としても使っていた。キ116は国鉄のラッセル式除雪車を1967年に譲り受けたものだ。
キ116は国鉄時代と同じ黒一色だが、モハ11とモワ51は緑色と黄色の2色で塗装されている。この塗装は戦後に採用されたもので、私も1987年に初めて電車線に乗ったときの塗装がこれだったから懐かしい。この2色の組み合わせがカボチャの皮(緑色)と中身(黄色)に似ていることから、沿線の子供たちが「かぼちゃ電車」と呼んでいたといい、保存会の名称もこの話にちなんでいる。
自走ではなく「他力」走行
月潟駅の白山前寄りはアスファルトとコンクリートで舗装された自動車の駐車場スペースに変わっているが、線路が路面電車の併用軌道のように埋め込まれている。3両のうち白山前寄りに設置されているモハ11を片道50m、往復100mほど走らせることが可能な状態だ。
一方、モハ11は自力走行できるようには整備されていない。上方に見える架線は通電されておらず、モハ11のパンタグラフも折りたたまれているのが見える。このため、内燃エンジンで動く小型の車両移動機を連結。移動機がモハ11を引っぱって50mほど走り、復路は移動機がモハ11を押して駅に戻る「他力」走行を行う。
9月1日は13時20分ごろから試運転を実施。14時台から16時台にかけて試乗会が行われた。まずは電車が走る姿を見ようと外で発車を待つ。ヘッドライトを点灯したモハ11が警笛を鳴らして移動機のエンジンがうなり声を上げると、ゆっくりと動き出して目の前を通り過ぎていった。
ホームの先に設置された信号機は、モハ11がホームを離れるときに青から赤に変わる。実際に鉄道の保安装置として機能しているわけではないが、なかなか芸(?)が細かい。スマートフォンと信号機をWi-Fiでつないで遠隔操作しており、列車が通過すると自動的に赤信号に切り替わる自作のセンサーユニットを取りつけているという。
移動機の存在とエンジン音にやや違和感を覚えるものの、「かぼちゃ色」が流れていく光景は往時とそっくり。復路は移動機が先頭に立たず見えにくいため、自力で走行しているように見える。併用軌道のような駐車場スペースを走る姿は、白山前寄りにあった併用軌道区間を思い起こさせた。
続いてモハ11に乗ってみた。運転台でドア開閉とブレーキ操作を行っており、ワイパーも動く。動力が「他力」なのを除けば現役時代と同じだ。天井では扇風機が回り、ワンマン運転時の録音案内放送も流れていた。本当に白山前か燕に向かって移動しているかのような気分になる。ブレーキ操作とドア開閉で使う圧縮空気は移動機にコンプレッサーを搭載して供給。扇風機などで使う電気は走行中はバッテリーから供給し、停車中は一般的な100Vのコンセントから給電しているという。
9月22日の走行イベントは乗車体験が有料(参加費は大人で400円)の事前予約・抽選制で8月31日に締め切っており、すでに満席。ただし外からの見学や停車中の車内の見学は予約不要だ。保存会によると、乗車体験の募集定員を全9回の運行で合計510人としたのに対し、申し込み人数は2700人以上。最も人気のある便の倍率は10倍以上だったという。参加費収入は今後の保存活動に充てられる。
併用軌道もあった鉄道
電車線が開業したのは昭和初期のこと。大河津分水の完成で流量が減った信濃川下流域で大型船の航行が困難になったのを機に計画された。1929年に運営会社の中ノ口電気鉄道が設立。のちに同社は新潟電鉄に改称し、1933年4月1日に東関屋~白根を開業した。全線単線で当初から電化されている。
続いて同年7月28日に県庁前(のちの白山前)~東関屋、8月15日に白根~燕が順次開業して全通。県庁前~東関屋の大半は路面電車と同様、道路上に軌道を敷設した併用軌道だった。
全通後に発行された鉄道省編纂『汽車時間表』1934年12月号(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)によると、県庁前~燕の所要時間は1時間5~7分ほど。これに対して国鉄の越後線・弥彦線は白山(旧駅)~西吉田(現在の吉田)~燕で1時間20分以上かかり、1日1往復あった直通列車を除くと西吉田駅での乗り換えが必要だった。このころは全線を乗り通す需要もあったに違いない。
ちなみに、県庁前停留場から新潟駅(現在の弁天公園付近にあった旧駅)に乗り入れる併用軌道の計画もあった。もともとは1918年、電力会社の新潟水電(のちの新潟電気→新潟電力)が路面電車として計画したもの。信濃川を渡る萬代橋は建設時に軌道を敷設するスペースが確保され、建設費の一部を新潟電気が拠出している。1931年に中ノ口電気鉄道が計画の権利を譲り受けたが戦争の影響などで進展せず、幻に終わった。
新潟電鉄は戦時中の1943年にバス会社と合併して新潟交通となり、県庁前~燕の鉄道も同社の路線になった。戦後は関屋分水の整備に伴うルートの変更(1971年)や新潟県庁の移転で県庁前駅が白山前駅に改称(1985年)するなどしたが、路線自体に大きな変化はなかった。
しかし、1960年代以降は周辺の道路整備が進むなどして利用者が減少。道路上を走る併用軌道区間では、騒音や振動などの問題で沿線住民から廃止を要望する声も出ていた。こうして1992年3月、まず白山前~東関屋が廃止。1993年には利用者がとくに少なかった月潟~燕が廃止された。
東関屋~月潟の21.6kmは並行する道路の幅が狭くバス転換が困難とされて存続したが、月潟~燕の廃止からわずか4年後の1997年、新潟交通は経営の悪化を受け電車線の全線廃止を表明。25年前の1999年に廃止された。
苦労は「ハード」より「ソフト」
廃止時点で残っていた車両のうち、モハ11・モワ51・キ116の3両は、1993年以降の終点駅になっていた月潟駅がある月潟村(現在の新潟市南区)が同駅の施設とともに譲り受け、静態保存することに。同村の呼びかけで駅と車両を管理するボランティアが集まり、2000年にかぼちゃ電車保存会が発足した。
保存会の平田翼会長によると、静態保存とはいっても修繕などで車両を移動させることがあり、そのため車両移動機を保存開始の数年後から保有していた。「これ(移動機)を使って、人を乗せて走らせたらどうか」というアイディアも以前からあった。こうしたなか、新潟市がまちづくり支援の補助金制度(特色ある区づくり予算)を創設し、月潟駅での保存活動が同制度で採択されたことから、走行イベントの実施を計画したという。
保存会は移動機を使った走行イベントが行われている名鉄谷汲線の旧・谷汲駅(岐阜県揖斐川町、2001年廃止)の事例などを参考にしつつ、モハ11を「他力」走行できるレベルまで修繕。こうして2022年、初の走行イベントが行われた。
通常は動態保存のための整備を行っておらず、人を乗せても大丈夫なよう整備するのは相当な苦労があったに違いない。ところが、平田会長は「ハード面の苦労は確かにあったが、どちらかといえばソフト面の苦労が大きかった」と話す。
「保存会の会員には鉄道車両の動態保存の経験がある人もいて、車両整備のノウハウはある。そもそも保存会は電車好きな面々だから、整備の苦労も『楽しさ』に変えられる。ただ役所との折衝や役所に提出する書類の作成などは経験が少なく、これが大変だった」という。
いつかは「電気」で走らせたい
ただ、そうした苦労のかいはあった。保存会によると、2022年の1回目の走行イベントは乗車体験の定員を合計360人で先着順の予約制としたところ、予約開始から7分で完売。2年目の2023年はさらに短くなって5分で完売し、キャンセル待ちが1000人を超えたという。このため今年2024年は募集定員を増やしたうえで抽選制に変更した。
平田会長によると内外の反響も大きかったようで、地元からは「懐かしい」との声が寄せられたほか「月潟の観光資源になる」と期待する声も上がった。ほかにも走行イベントの開催を機に「(新潟交通電車線の)資料を提供したい」と申し出た人がいるなど、全国各地から応援の声が寄せられているという。
平田会長は「廃止から25年が過ぎ、現役時代を知らない人も増えている。『懐かしさ』だけを売りにしていたら、いずれ立ちゆかなくなる。将来的には金銭的にも公的支援に頼らず、持続的に維持できればと思う」と話す。そして最後に「いつかは“電気”で走らせたいですね」と、将来の夢で締めくくった。
廃止前と同様に電気で自力走行させるとなれば、車両のモーターやパンタグラフだけでなく架線柱や架線などの再整備も必要になり、そう簡単な話ではないだろう。とはいえ、私もモハ11が電気で自走する姿をいつか見てみたいと思う。
《関連記事》
・新潟交通電車線モハ11の乗車体験が3年目「満員電車の再現」も 募集方式を変更
・新潟市「さらに新駅」調査・調整へ 地域公共交通計画に盛り込み