90年前にもあった「沖縄の路面電車」車体を外した電車を運行したことも



那覇市が構想している路面電車タイプの軽量軌道交通(LRT)が、実現に向け大きく動き出しそうな気配になった。

親見世前大通りを走る電車。右側は第百四十七銀行の那覇支店。【所蔵:那覇市歴史博物館】

『沖縄タイムス』2024年3月15日朝刊や『琉球新報』2024年3月16日朝刊などの報道を総合すると、那覇市はLRTの整備について国や沖縄県、沖縄県警などの関係者から大筋で了承を得た。3月下旬にも整備計画の素案を公表し、来年度2024年度にパブリックコメントを実施。2025年度末には整備計画を策定するという。

実現すれば、沖縄県内では初の路面電車……と思いきや、実は初めてではない。沖縄県が運営する軽便鉄道が戦前にあったことは比較的よく知られているが、「沖縄電気軌道」という路面電車も明治末期に計画され、90年ほど前まで運行されていた。

沖縄電気軌道(赤)と那覇市が構想するLRTのルート案(緑)。【画像:国土地理院地図、加工:鉄道プレスネット】

電気の供給先確保と宣伝

明治末期の沖縄には発電所がなかったが、大阪の実業家の才賀藤吉が那覇で電力事業に乗り出すこと決め、1908年に沖縄出張所を開設。1910年には電力会社の沖縄電気を設立して那覇市内に発電所を建設し、同年12月には沖縄初の「電気の灯」がともった。

当時は「電気のない生活」が珍しくなかった。発電所を建設すれば、すぐに電気利用の契約が殺到するような時代ではない。そこで才賀は那覇~首里を結ぶ路面電車の運行も計画。1910年に軌道敷設の特許を取得し、1911年には運営会社の沖縄電気軌道を沖縄電気の子会社として設立した。

つまり電気の供給先を確保するために、路面電車の運行を自分で計画したわけだ。これは当時としては一般的に行われていた経営手法。電車を運行することで電気の利点を宣伝し、それにより電気利用の契約者を増やすという狙いもあった。

元号が明治から大正に変わって1914年5月3日、沖縄電気軌道の大門前~首里が開業。沖縄県内で軌道系公共交通の営業路線が開業したのは、これが初めてだった。ちなみに沖縄県営鉄道の最初の路線である与那原線は、それから半年以上が過ぎた12月に開業している。

崇元寺石門の脇を走る沖縄電気軌道の電車(左)。【所蔵:那覇市歴史博物館】

開業後すぐに経営難

沖縄電気軌道は単線で、一部の停留場は電車の行き違いができるよう2本以上の軌道を敷いた。軌間は沖縄県営鉄道が762mmと狭かったのに対し、沖縄電気軌道は国鉄在来線と同じ1067mmを採用。動力は当然ながら電気で直流500V。大阪の梅鉢鉄工所が1912年に製造した、木造車体の2軸電車(40人乗り)を10両導入している。

大門前停留場は現在の久米大通りの中間部に設けられ、現在のゆいレール旭橋駅から300mほど離れた場所。ここから那覇の市街地を併用軌道で通り抜ける。市街地を抜けたところにある女学校前停留場の近くには1922年に沖縄県営鉄道嘉手納線の安里駅が開業し、乗換駅として機能したようだ。

坂下停留場からは路面電車専用の敷地に軌道を敷いた新設軌道(専用軌道)になり、オメガカーブで勾配を緩和しながら丘陵部へと入っていく。終点の首里停留場は現在の首里高校付近で、ゆいレールの首里駅からは1km以上離れていた。

丘陵部を走る電車(左上、観音堂下付近)。このあたりは専用軌道だった。【所蔵:那覇市歴史博物館】

最初のうちこそ物珍しさで混雑したが、すぐに利用者が減少。翌1915年に経営再建のため沖縄電気の直営になった。1917年には延伸開業し、通堂~首里の6.9kmを結ぶ路線に。通堂停留場は現在の那覇港フェリーターミナル付近にあった。なお、首里停留場からさらに200mほど延伸する計画もあったが、これは実現していない。

漁船風の電車でバスに対抗

1916年以降、経営はある程度安定。通堂への延伸直後にストライキが発生して大幅に減便したことがあったほか、社員が自分の子供を殺害する事件(1926年)や会社の乗っ取り(1927年)という経営混乱もあったが、営業成績は比較的順調に推移した。

しかし昭和に入って1929年、あらかき自動車商会というバス会社が那覇~首里でバスの運行を始めると、路面電車の利用者は急速に減少。沖縄電気は活性化のためさまざまな施策を打ち出してバスに対抗した。

まず1930年に「ハーリー電車」を運行する。「ハーリー」とは航海安全や豊漁を祈願し、「サバニ」と呼ばれる沖縄の伝統漁船で競うレースのこと。10両ある電車のうち1両の車体を取り外してサバニ風の装飾を施し、波之上祭という祭事にあわせて走った。祭事が終わると再び車体を載せ、営業用の車両に戻したという。

車体を外してサバニ風の装飾を施した「ハーリー電車」。【所蔵:那覇市歴史博物館】

翌1931年の波之上祭でも、車体を取り外してシーサーのオブジェを載せた「シーサー電車」を運行。この年には中古の電車を2両導入して増発し、通堂~西武門の運賃を半額にして買物客の増加を目指した。しかし利用者の減少に歯止めがかかることはなかった。

沖縄電気軌道は単線のため上下の電車の行き違いに時間を取られたのに対し、バスは行き違いの待ち時間がない。これに加えて新しい道路が整備され、バスのスピードアップが図られたことも競争上の不利になった。こうして1933年3月、沖縄電気軌道は営業を休止。8月には正式に廃止されてしまった。

わずかに残る遺構

廃止から90年以上が過ぎているうえに沖縄戦を挟んだこともあって、沖縄電気軌道の遺構は皆無に近い。ただ、那覇市松川のホテル「ノボテル沖縄那覇」の東側にある斜面(専用軌道区間の坂下~観音堂下)には、沖縄電気軌道の橋脚とされる構造物が残っている。また、2010年には松川の民家にあったレールが沖縄電気軌道のものであることが確認されている。

ノボテル沖縄那覇の東側斜面に残る沖縄電気軌道の橋脚とされる構造物(2005年)。【撮影:草町義和】

那覇市のLRT整備案は、那覇新都心~真玉橋の南北ルートと那覇バスターミナル~南部医療センターの東西ルートで構成される。かつての沖縄電気軌道のルートとは大きく異なるが、実現すれば那覇の路面電車が復活することになるのは確かだ。那覇市は2030年代の中ごろから後半にかけて開業することを目指している模様で、今後の動きに注目したい。

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