米軍が記録した「沖縄県営鉄道」破壊の跡 かつて東北の国鉄ローカル線を走ったSLも



沖縄本島にはかつて「ケービン」と呼ばれた県営鉄道が存在したが、太平洋戦争末期の沖縄戦で破壊され、戦後は復旧することなく事実上消滅した。残った施設も再開発などで大半が消失しており、鉄道があったことを示す名残は少なくなった。

米軍は沖縄本島に上陸した1945年4月以降、現地で多数の写真を撮影している。そのなかには沖縄県営鉄道の写真もあり、現在は沖縄県公文書館のウェブサイト「写真が語る沖縄」で閲覧することが可能だ。1972年5月15日に沖縄が日本に復帰してから50年を迎えたのを機に、戦争で破壊された沖縄県営鉄道の写真を紹介する。

(アルバム名・撮影時期・撮影地・解説は米軍が付記した情報)

アルバム名:米海兵隊写真資料21/撮影時期:1945年5月/撮影地:那覇市/解説:第6海兵師団の那覇占領後、市内に残った操車場跡。写真の車両はガソリン動力車。沖縄の鉄道は、那覇から首里や嘉手納間を運行していた。【所蔵:沖縄県公文書館】

転車台や線路の位置から那覇駅構内で、写真右奥に駅舎やホームがあったと思われる。同駅は1944年10月10日の空襲で駅舎などがほぼ焼失。戦後はバスターミナルとして再整備され、2018年にはバスターミナルと一体化した複合商業施設「カフーナ旭橋」がオープンした。ちなみに転車台の遺構がカフーナ旭橋の整備に伴い出土し、現在は出土場所から少し離れた場所に移設して保存されている。

転車台上の車両は荷台を設けた形状などから気動車(ガソリン車)のキハ11かキハ12とみられる。いずれも日本車両製で1932年の製造だ。沖縄県営鉄道は1914年の開業以降、蒸気機関車が牽引する旅客列車や貨物列車を運行していたが、1930年代にはバスとの競争が激しくなり、速度面で有利なガソリン車を導入している。

アルバム名:米海兵隊写真資料21/撮影日:1945年5月/撮影地:記載なし/解説:手前の線路に置かれたカービン銃の大きさと機関車の車台を比較すると、線路の軌間幅が見てとれる。【所蔵:沖縄県公文書館】

車輪の下側に2本のレールをまたぐようにしてカービン銃が置かれている。カービン銃とは通常、長さが800mm以下の銃のことだが、沖縄県営鉄道の軌間は762mmのナローゲージで、レールに置かれたカービン銃より間隔が狭い。当時の国鉄在来線(1067mm)より300mmほど狭く、車両も小型で輸送力が小さかった。このように沖縄県営鉄道は簡易規格の軽便(けいべん)鉄道として建設されたため、琉球方言で「ケービン」と呼ばれていた。

アルバム名:占領初期沖縄関係写真資料 陸軍23/撮影日:1945年6月21日/撮影地:記載なし/解説:米軍によって捕捉された日本軍機関車。状態が良く、その後は米軍が使用する予定。【所蔵:沖縄県公文書館】

車体の形状から蒸気機関車の6~8号機と思われる。ドイツ・コッペル社製のC形タンク機で、1923年に導入された。

付記された解説には「状態が良く、その後は米軍が使用する予定」とある。米軍による占領統治が始まった直後に鉄道復旧の話が持ち上がっていたから、そのことを指しているのだろうか。しかし鉄道復旧の話はすぐに立ち消え、復活することはなかった。

アルバム名:米海兵隊写真資料47/撮影日:1945年4月/撮影地:記載なし/解説:嘉手納~首里~那覇間の鉄道路線で使用されていた機関車。機関車のサイズと、造りから見る年式に注目。【所蔵:沖縄県公文書館】

車体に記された番号などから14号機とみられる。英国エイボンサイド社製のC形タンク蒸気機関車で、同型の11~13号機を含む4両が1911年から1913年にかけ製造された。ただし沖縄県営鉄道向けに製造されたものではなく、もともとは宮城県内の小牛田~石巻間を結ぶ仙北軽便鉄道(現在のJR石巻線の一部)の1~4号機だった。

1919年に仙北軽便鉄道が国有化されて国鉄線となり、記号番号をケ190~193に変更。しかし翌1920年、同線の軌間が762mmから1067mmに変わったことから、4両とも762mm軌間の沖縄県営鉄道に譲渡されて記号番号が11~14号に変わった。東北の国鉄ローカル線からはるか1800km以上離れた南国の地に渡り、そして沖縄戦に巻き込まれたことになる。

かつては路面電車や馬車鉄道も

日本の47都道府県中、沖縄県は普通鉄道(2本のレールを敷いた鉄道)の営業路線が唯一存在しない。2003年、那覇市内の那覇空港~首里間に沖縄都市モノレール線(ゆいレール)が開業し、2019年には隣接する浦添市内のてだこ浦西駅まで延伸されたが、普通鉄道とは構造が大きく異なる。

戦前には沖縄にも多数の鉄道が存在した。沖縄本島では1914年、那覇から東に進んで与那原を結ぶ与那原線が沖縄県営鉄道として開業。その後も県営鉄道の整備は続き、1922年に那覇から北に進んで嘉手納に向かう嘉手納線、翌1923年には南部の糸満に向かう糸満線が開業し、那覇を中心に3方面を結ぶネットワークが構築された。

これ以外にも路面電車の沖縄電気軌道(1914年開業)や、馬車鉄道の沖縄軌道(1914年開業)と糸満馬車軌道(1919年開業)が存在した。また、営業運転は行っていなかったがサトウキビや鉱石を運ぶトロッコ軌道も沖縄本島の各地や南大東島、宮古島などにあった。

戦前の沖縄本島にあった鉄道と2003年以降に開業したゆいレール(グレー)。県営鉄道(黒)のほか路面電車(赤)や馬車鉄道(青)もあった。【画像:国土地理院地図、加工:鉄道プレスネット】

沖縄電気軌道と糸満馬車軌道はバスとの競争に敗れ1930年代に廃止。沖縄県営鉄道と沖縄軌道も太平洋戦争末期の沖縄戦で1945年3月までに運行を停止し、線路や車両が破壊された。米軍の占領統治下に入った戦後は道路整備が優先され、そのまま消滅している。南大東島のサトウキビ運搬軌道は唯一存続したが、これも1983年、トラック輸送に切り替えられて姿を消した。

那覇駅の跡地で出土した転車台は出土場所から少し離れた場所に移築保存されている。【撮影:草町義和】

現在、沖縄本島を縦断して糸満~那覇~名護を結ぶ「沖縄鉄軌道」の構想が内閣府や沖縄県によって検討されているが、膨大な費用や採算性の確保が大きな課題として立ちはだかっている。これまでの内閣府の調査でも、費用便益比(B/C)は整備費以上の効果があることを示す「1」以上になったことがない。

内閣府の沖縄振興審議会は今後10年間の沖縄振興策の方向性をまとめた「沖縄振興基本方針」を4月に取りまとめ、5月10日に岸田文雄首相の決定を受けた。この基本方針では、沖縄鉄軌道について「全国新幹線鉄道整備法を参考とした特例制度を含め調査及び検討を進め、その結果を踏まえて一定の方向を取りまとめ、所要の措置を講ずる」とし、整備新幹線と同じ財源スキームで建設することを目指す考えを盛り込んでいる。

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