那須温泉郷(栃木県那須町)の一角を占める那須湯本温泉。那須火山帯の南端に位置する那須岳の麓にあり、近くには「九尾の狐」伝説で知られる溶岩「殺生石」がある。
いまから100年ほど前、那須湯本温泉と東北本線を結ぶ私鉄「那須電気鉄道」が計画されたことがある。しかし不況の影響などで工事は中断し、そのまま幻の鉄道、いわゆる「未成線」と化した。
わずかに残る「電車路」「橋」の名残
那須電気鉄道の起点は東北本線の黒田原駅が予定されていた。東北本線の関東エリアと東北エリアの境界駅となっている黒磯駅からは、普通列車で5分ほどの場所。この駅の裏手(北側)に那須電気鉄道の黒田原駅を整備する計画だった。
建設ルートは黒田原駅から北西~西に向けて進み、守子地区のあたりからは北上して終点の湯本駅に至る計画だった。工事が中断してから100年近く過ぎ、せっかく完成した路盤も農地に戻されたり新たに整備された道路に飲み込まれたりしているが、一部の路盤はいまも小道として使われており、地元では「電車路(でんしゃみち)」と呼ばれている。
また、小島地区には国道4号との交差地点の先に、水路をまたぐための橋台が残存。水路は区画整理によるルート変更で消失しており、農地に二つの橋台が浮かび上がっている状態だ。
戸能~北条の東北自動車道との交差地点の先にも橋台が残り、こちらは草木のなかに埋もれていて見つけにくい。北条地区にはアーチ型の橋が残っており、いまも道路橋として「現役」。近年、那須電気鉄道の痕跡であることを示す案内板が設置された。
守子付近から湯本駅までは未着工だった部分が多かったせいか、建設ルートがはっきりしない部分が多い。ただ、半円形の路盤がいまも「電車路」として部分的に残っているのが確認できる。那須岳の山麓部を進むため相当な急勾配になったはずで、オメガカーブを幾重にも描いて勾配を緩和しながら進む計画だったとみられる。
終点の湯本駅の予定位置も詳細は不明で、那須温泉郵便局の手前にある旭橋の近くだとする説や、旭橋の南側にある旅館「山楽」付近とする説がある。ここから温泉街に入って1km以上歩けば、有名な殺生石がある。
一時は自動車道への計画変更も
那須電気鉄道は、那須湯本温泉の観光客や那須岳で産出される硫黄の輸送などを目的に計画された。地元有志15人が発起人となって1918年、黒田原~湯本の約14.5kmを結ぶ鉄道の免許を申請。この時点での計画では、軌間が762mmで動力は電気(直流550V)、車両は電気機関車2両と客車4両、貨車10両とされていた。
発起人は翌1919年に免許を受けたが、第1次世界大戦後の経済不況や関東大震災の影響で資金調達が難航。さらには黒田原駅で接続する東北本線のルート変更計画が持ち上がり、工事に着手できない状況が続いた。
免許から5年後の1924年、ようやく運営会社の那須電気鉄道が設立され、同社は詳細な工事計画を定めた工事施行認可を申請した。このとき計画を変更しており、軌間は国鉄線と同じ1067mmにして輸送力の増強と貨車の直通化を図ることに。勾配を緩和するためのルート変更も行い、距離は16.295kmに延びている。駅は起終点を含め7カ所に設置。車両は定員40人の電動客車3両と定員35人の付随客車2両、貨車6両とした。
こうして1925年6月に工事施行が認可され、12月には工事の着手を届け出て1926年1月に起工式が行われた。その後しばらくは順調に工事が進んだようで、1926年末時点の進捗率は用地が65%、土工が38%、橋梁17%だった。
しかし、1927年の金融恐慌などの影響を受けて工事が中断。会社内での内紛もあって再開できず、那須電気鉄道は国が定めた工事の完成期限を延期するための申請を繰り返した。1933年に同社は鉄道建設を取りやめて自動車道に計画変更することを国に申し出たが、翌1934年には再び鉄道整備の方針に変わっており、かなり混乱していた様子がうかがえる。
結局、工事中断から10年以上が過ぎた1938年、国は完成期限の延期申請を却下。那須電気鉄道の免許を強制的に失効させた。
湯本駅の予定地とみられる場所から南東へ2km弱のところには那須御用邸がある。もし那須電気鉄道が実現していたら、お召し列車が走っていたのかなと思う。
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