芳賀・宇都宮LRTもうひとつの反対運動「小学生が危ない」戦前の新潟でも似たケース



宇都宮ライトレールの宇都宮芳賀ライトレール線(芳賀・宇都宮LRT)が8月26日、開業した。路面電車方式の軽量軌道交通(LRT)を採用し、宇都宮市と同市東側の栃木県芳賀町の14.5kmを当面は50分弱で結ぶ。道路上に敷設した併用軌道だけでなく道路外の専用軌道や高架橋を走る区間もあり、変化に富む路線だ。

平石中央小学校の近くを通る芳賀・宇都宮LRT。【撮影:草町義和】
芳賀・宇都宮LRTのルート。【画像:国土地理院地図、加工:草町義和】

自動車中心社会ということもあってか建設反対運動が起こり、市長選でも大きな争点となったが、ほかにもルートに反対する運動があった。場所は宇都宮市の平石地区で、宇都宮駅東口停留場から七つ目の平石中央小学校前停留場付近。その名の通り、近くには平石中央小学校がある。

ルート変更で小学校の近くを通過

2014年2月に宇都宮市が地元に示したルートでは、宇都宮駅東口から栃木県道64号(鬼怒通り)を併用軌道で東進。国道4号(新道)と立体交差する平出交差点や市役所施設の平石地区市民センター付近を通ってから鬼怒通りを離れて専用軌道となり、鬼怒川を渡る。平石中央小学校付近は通らず、市民センターの近くに停留場が設けられるはずだった。

ところが同年7月になると、宇都宮市はルートの変更案を地元に提示。平出交差点や市民センター付近は車線減少による交通渋滞が予想されるなどとし、平出交差点の手前で鬼怒通りから離れ、平石中央小学校の北側を通って鬼怒川に抜けるルートを示した。

2014年までのルート案(赤点線)と実際に建設されたルート(黒)。【画像:国土地理院地形図、加工:草町義和】

これに平石地区の住民らが反発して調整が難航する。地域拠点の市民センターから離れて不便というだけでなく、小学校の近くを通ることから通学時の子供たちが危険にさらされるなどとし、ルート変更に反対した。子供はときとして予想外の行動をすることがあるから、親御さんにしてみれば心配の種ではあるだろう。私も子供のころ、理由は忘れたが突然車道に飛び出して自動車にはねられた経験がある。

こうしたなかの2016年2月、平石地区の地権者らが代替策として高架橋による迂回ルートを宇都宮市に提案する。この提案では、平石中央小学校付近の約1kmのルートを北側へ約100mずらして高架橋で整備。そのまま鬼怒川橋梁に接続させるものとした。これにより道路との交差が立体化され、子供の安全も確保できるというわけだ。

ただ、このころには宇都宮市のルート変更案を受け入れる自治会が出始める。また、高架化・迂回ルート案によって影響を受けることになる住民が反発。同じ自治会内でも対立が激しくなるなど、住民のあいだでも考えがまとまらなかった。

同年6月に宇都宮市は高架化・迂回ルート案の検討結果を住民らに提示。工事費が約14億円増加するほか、停留場が高架になることで利便性が低下する、日照面や景観面で周辺環境に与える影響が大きいなどとし、ルート変更案をさらに変更するつもりはないとの姿勢を示した。

結局、宇都宮市のルート変更案のまま計画は進み、平石地区の高架化・迂回ルート案は幻に終わった。宇都宮市は平石中央小学校付近では状況に応じて現地に安全確認・注意喚起を行う人員を配置する考えだ。

「ライトライン」製造の地でも

子供の安全確保に問題があるとして反対の声が挙がった鉄道は、戦前にもあった。たとえば、芳賀・宇都宮LRTのHU300形電車「ライトライン」を製造した新潟トランシスの工場がある新潟県の長岡鉄道。現在の長岡市の信濃川西岸エリアと港町の寺泊を結んでいた私鉄路線で、大正期に計画された。

まず1915年、与板駅から寺泊駅(2代目、現在の寺泊水族博物館付近)まで開業。翌1916年には西長岡~与板が延伸開業し、1921年に来迎寺~西長岡~寺泊の39.2kmが全通した。

長岡鉄道のルート。【画像:国土地理院地図、加工:草町義和】

西長岡から与板にかけては当初、信濃川に近い東側の集落を結ぶルートが考えられていた。ところが長岡鉄道は1914年に入ると、信濃川から離れた西側の集落を結ぶルートに変更することを計画。これに与板町(現在の長岡市与板)など沿線の各町村が反発した。

当時の与板町の池上信五郎町長や町会議員らは、私鉄の事業を監督していた鉄道院(現在の国土交通省に相当)の仙石貢総裁に対し、長岡鉄道のルート変更に反対する上願書を提出している。このうち池上町長が提出した上願書(1914年8月26日)の内容は次の通り(一部、「●」は解読不能)。

一 風雨寒暑ノ別チ無ク小学校ニ昇降約一千人ノ児童カ通路ヲ全部横断スルカ故ニ危険云フ可ラス小学校長ノ意見亦同一ナリ

二 町民中約五千人ノ生活上一日モ欠ク可ラサル飲料水樋管ハ悉ク軌道ノ下トナリ大切ナル水源ノ潰滅スルモアリ一朝故障又ハ渇水時ニ際セハ危害名状ス可ラス

以上ノ如クニ候間町民ノ世論ヲ尊重シ与板町会ハ満場一致ヲ以テ仝会社ニ対シ危険無キ否危険危害ノ尠キ方面ニ軌道ヲ変更候様通告セシ次第ニ有之候希クハ閣下明鑑ヲ垂レ永久ニ亘リテ頑是ナキ児童ノ危険ヲ軽減シ得ヘキ線路ヲ索メ候様仝会社ニ対シ御指令礼成降度仝会社ヨリ施工認可セリト聞キ憂惧措ク●ハス敢テ尊厳ヲ潰シ再ビ上願仕候也

与板町長が鉄道院総裁に提出した上願書。【所蔵:国立公文書館】

昔の文章で分かりにくいが、現在は長岡市与板支所がある与板小学校につながる通学路を線路が横断するため児童に危険が及ぶとし、ルート変更に反対していたことが分かる。線路の下を通ることになる水道管への影響も懸念していた。

長岡鉄道・上与板~与板のルート。近くに小学校があった。【画像:国土地理院地形図、加工:草町義和】

宇都宮とよく似た経緯

実際に開業したルートを地図で見てみると、与板町内は当時の小学校の近くを通り抜けており、長岡鉄道のルート変更計画の通りに建設されたようだ。町長が上願書を提出する少し前、長岡鉄道は学校近くの踏切に「番人」を配置するほか、道路脇に「柵垣」を設置するとした文書を鉄道院に提出しており、これが最終的には地元に受け入れられたと思われる。このあたりの経緯は芳賀・宇都宮LRTの平石地区とよく似ている。

与板の市街地を通り抜ける長岡鉄道の線路(廃止後の1989年)。【撮影:草町義和】

ちなみに与板町より南側の町村は、線路の敷設で水路が分断され洪水が発生するなどとしてルート変更に反対し、当初計画の東側集落ルートで建設するよう求めていた。実際には東西両側の集落のあいだに広がる田園地帯を貫くルートになったが、いずれにせよ西側集落から離れたルートで建設された。

長岡鉄道は戦後の1951年に電化して輸送力を強化。1960年には中越自動車・栃尾電鉄を合併して越後交通に改称し、長岡鉄道の鉄道線は越後交通の長岡線となった。しかし自動車中心の社会への転換が進み、利用者が減少。長岡市の中心部に乗り入れず、しかも西長岡~与板は集落から離れたルートで使い勝手が悪いルートだったことも災いし、旅客列車は1975年までに全廃された。その後は来迎寺~越後関原のみ貨物列車が運行されていたが、これも1995年までに全廃されている。

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