新宿駅の南口「幻の改札口構想」JRの駅ビルがJRの駅から離れている理由



利用者数世界一のターミナル、新宿駅。これまで幾度となく拡張や建替を繰り返し、今日の姿になっていった。JR新宿駅の南口には、その過程で幻に終わった改札口の構想があった。

JR新宿駅南口の様子。甲州街道沿いに手前からルミネ2、新宿ミロード、ルミネ1が並ぶ。【撮影:鳴海侑】

南口に並ぶ各社駅ビルの謎

新宿駅は東西を挟むようにして百貨店や駅ビルの敷地がある。東側にはJR系の駅ビル「ルミネエスト」「ルミネ2」「NEWoMan」「新宿高島屋」、西側には「ルミネ1」のほか私鉄系「小田急百貨店 新宿店(建替のため解体工事中)」「京王百貨店 新宿店」、そして小田急系のショッピングビル「新宿ミロード」がある。

小田急百貨店新宿店は小田急新宿駅と一体で建設された。【撮影:鳴海侑】
京王百貨店新宿店は京王新宿駅の真上にある。【撮影:鳴海侑】

ルミネやNEWoManはJR東日本子会社のルミネ社が展開する駅ビルブランドで、どちらも20~30代の女性をターゲットとし、新宿・大宮・横浜といった大きなターミナルに展開している。そのため、聞き馴染みのある方も多いだろう。

NEWoManは新宿と横浜、ルミネは首都圏に13館展開しており、なかでもルミネの名前を一番長く使っているのは新宿駅の南西に位置するルミネ1(1976年開業)だ。当初は国鉄の関連会社「新宿ターミナルビル」が運営する「新宿ルミネ」として地上8階建て、地下4階建てのビルとして開業した。

JR系のルミネ1は京王百貨店新宿店の南側にある。【撮影:鳴海侑】

地下2階には京王線の改札を持ち(開業当初は小田急線の改札もあった)、京王新線・都営新宿線・都営大江戸線の改札ともほぼ隣接している。そして館内のエスカレーターで地上2階に上がれば、隣接する商業施設「新宿ミロード」を介して小田急線とJR線の南口に連絡する。

実際に利用すると、あまり駅ビルのなかを通っていることを意識させないような作りになっている。一方で外から見ると、建物こそ普通のビルであるが、不思議な場所に立地している。

駅ビルは通常、同じ会社線の真上や隣接地に建設される。しかし、ルミネ1は西新宿1丁目交差点の北東角地に建設されており、南と西の面は道路、北の面は京王百貨店新宿店、東の面は新宿ミロードと隣接し、地下には京王線が通る。

つまり、JRの駅施設としては孤立しており、むしろ京王電鉄のビルではないのが不思議なくらいである。土地もJR東日本が国鉄の土地を継承し、保有している。

新宿駅の駅ビルの位置。ルミネ1はJR系なのにJR駅から離れている。【作成:鳴海侑】

一体なぜ、この場所に国鉄は駅ビルを建てたのだろうか。そこには、新宿駅の駅設備拡張を巡るストーリーがあった。

当初は東西に改札口を設ける計画

日本において鉄道は明治時代から本格的に建設されはじめ、新宿駅は明治初期の1885年に誕生した。始めは1路線だけの乗り入れだったが、東京の都市圏が広がっていくとともに路線の乗り入れも増えてターミナル駅となり、駅周辺も発展していった。

昭和になり第2次世界大戦が終わると、東京の都市圏は現在の23区よりさらに外側へと拡大。多くの人が郊外部に放射線上に伸びる路線を利用し、山手線周辺より内側にあるオフィスを目指して通勤するようになっていった。

すると、戦前から新宿駅に乗り入れる国鉄・小田急電鉄・京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)の各社は増加を続ける輸送量に対応するため、輸送力増強に迫られることになった。そのため各社とも、より長い編成を複数発着できるよう駅設備を増強する必要があった。また、私鉄各社はターミナルとして人が多く行き交う新宿駅を改造し、駅と商業施設を一体化することで収益力の向上を図ろうと画策した。

なかでもとくに意欲的だったのが小田急電鉄で、1949年頃から新宿駅の大改造を検討。1955年前後には京王帝都電鉄と共同で大規模な駅ビルの建設を打ち出した。この案は立ち消えとなるが、その後1957年には、輸送力の増強に追われる国鉄が新宿駅西口の駅施設建設を断念したことで、小田急電鉄が東京都・国鉄と連携。西口駅舎を建設する方向になった。

そして1961年、国鉄・小田急・京王・営団地下鉄(現在の東京メトロ)が駅施設の大筋や連絡方法について定めた4者協定を結んだ。

当時の新宿駅は「東口」のほか、「青梅口」(現在の西口)と「甲州口」(現在の南口)があった。そして4者協定で甲州口から小田急線を挟んで西の場所、現在の「ルミネ1」が建つ場所に国鉄が駅施設を建設することになった。

甲州口は名前の通り、甲州街道に面した改札口。現在と同じく、改札口の目の前には甲州街道が通っていた。さらに、甲州街道は現在の6割ほどの広さで、駅前の歩道は狭かった。そのため、国鉄はこの甲州口の手狭な状況をなんとかしたいと考え、1960年前後に甲州口の抜本的な改良構想を作った。

構想では甲州口の改札口を、線路を挟んで東西への配置とし、東を「旭町口」、西を「角筈口」として駅舎を建設。改札内には臨時列車の旅客待合室も含めた十分なスペースを設けることを考えた。

ただ、駅の西側には小田急や京王が乗り入れており、駅舎や改札口を設置する場所がない。そのため、国鉄は小田急線の線路をまたいで京王線の線路の真上、つまり現在のルミネ1がある場所を確保し、小田急・京王との連絡設備を設けた上で角筈口を建設することとした。

1960年頃に構想されていた新宿駅の将来図。南口の駅舎(左)は国鉄・小田急・京王各線をまたぐようにして東西に延び、東端(左下)の「旭町本屋(旭町口)」と西端(左上)の「角筈本屋(角筈口)」にそれぞれ改札口が描かれている。【画像:森垣常夫「新宿駅改良計画の構想」『交通技術』1960年11月】

こうしてルミネ1の場所は国鉄が使用することになったのだが、10年以上とくに大きな建築物の建設など行われることはなく、資材置場として利用されるだけであった。当時設備の増強を迫られていたのは、新宿駅だけではなかったし、そのため新宿駅の西口は小田急に駅施設建設を任せたという経緯もある。

ただ、国鉄は角筈口や旭町口の建設を諦めたわけではない。とくに角筈口に関しては、1960年代の業界紙を見ると時折存在がほのめかされている。

そして1968年、都営新宿線の都市計画決定にあわせて大きく動いた。都営新宿線・京王新線の新宿駅と、それまでに完成していた国鉄・小田急・京王の駅施設を繋ぐ施設として、商業施設を兼ねたビルの建設が計画された。当初の角筈口構想と異なり改札口は建設されないことになったが、それでもターミナル駅として移動を円滑にする重要な施設であった。

こうして建設されたビルは「ルミネ」と名付けられ、1978年3月に開業。同じ年の10月には京王新線、1980年10月には都営新宿線、1997年12月には都営12号線(現在の都営大江戸線)が開業し、現在まで新宿駅の各路線をつなぐ駅ビルとして、角筈口に期待された機能の一部を担うこととなった。

また、1984年には国鉄の甲州口とルミネの間に小田急が「新宿ミロード」を開業。改札外のコンコースではあるが、角筈口の構想に近い、甲州口(南口)から西側への通路がおおむねできあがることとなった。

大規模な再開発事業が進行中

新宿駅西側では現在、二つの大規模再開発計画が始動している。一つが「新宿駅西口地区」計画で、小田急・東京メトロが中心となって進める。もう一つが「新宿駅西南口地区」計画で、こちらは京王・JR東日本が中心となって進める。

新宿駅西口地区計画で小田急と東京メトロが建設するビルのイメージ。【画像:小田急電鉄・東京メトロ】

その背景としては、1961年の4社協定に基づいて建設された建築物のなかには完成から50年以上が経過しているものがあり、建替を検討しなくてはならないことがあった。そして、50年のあいだに変わった都市計画の仕組みを活用し、さらなる土地の高度利用を図ることで駅施設の機能向上や商業施設拡大にとどまらない、複合的な機能を入れたビルの建設を図る計画となっている。

二つの計画予定地は隣接するため、土地の高度利用だけではなく、相互に補完しあってシームレスで乗り換えしやすい駅づくりを目指しているのも大きな特徴だ。

ルミネ1の土地・建物は新宿駅西南口地区の計画予定地に含まれ、現在の京王百貨店新宿店とルミネ1を建てかえ、一体的な地上19階、地下3階建ての建築物(仮称:北棟)にする予定だ。完成は2040年代を見込む。

京王電鉄とJR東日本が建設する新宿駅西南口地区のビルのイメージ。【京王電鉄・JR東日本】

また、新宿駅西南口地区計画では2028年までに甲州街道の南側に地上37階、地下6階建ての複合施設(仮称:南棟)を建設。甲州街道上にデッキをかけて、北棟と接続することになっている。

2023年6月現在の新宿駅西口。新宿駅西口地区の再開発が始まり、小田急百貨店の解体が進む。【撮影:鳴海侑】

この計画通りに建築物が出来ていくと、ルミネ1周辺の景観も大きく変わることとなる。だからこそ、いまのうちに「ルミネ1」の姿を見て、高度経済成長期に大きく改造されてきた新宿駅をめぐる計画や構想に思いをはせてみてもよいのではないだろうか。

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